メキシコと関わっていると、いろんな場面で「死」に出くわす。
でも、そのどれもが日本で感じる感覚とは何かが違った。
なんというか、距離感が近いように感じるのだ。
日本ではとても遠いところに感じていたものが、すぐ近くにあるような、そんな感覚。
ここでは(私からすれば)人がとてもあっさりと死んでいく。
無謀な運転の事故や、偏った食生活による病気、ナルコ同士のいさかいなど、理由はそれぞれだ。
メキシコで一度だけ、お葬式に参列する機会があった。
友人の妹が若くして亡くなってしまったのだ。
脳の病気だったようで、若かった事もあり、病気の進行がとても早く、本当にあっという間に亡くなってしまった。
とても感じが良く、素朴で可愛い女の子だったので、とても悲しかった。
お葬式は自宅で行われ、神父さんみたいな人と、泣き唄い女みたいな人が 3人外から来て、後は家族と親族だけという小さなお別れ会だった。
小さな家の中には、大人と同じくらいの数の赤ちゃんや子供、妊娠してる女性が何人かいた。
子供たちは、皆が賛美歌を歌ったり神父さんのお話を聞いている間も、狭い家の中をちょろちょろ動き回っては、笑ったり泣いたりしていた。
彼女が亡くなってしまった寂しさに浸る隙間もないぐらい、泣き唄い女は大声で歌い、子供たちは動き回り、赤ちゃんは可愛さを炸裂させていた。
メキシコでは一人暮らしをしている人は本当に少なく、家族や親族、友人や恋人など、ほとんどの人たちが誰かと一緒に住んでいる。
スクワッターも共同で済んでいる。
そのコミュニティの中で誰かが死んでしまっても、その数以上に新しい命がどんどん生まれてくる。
人口が増えている国というのは、悲しむ回数より、喜ぶ回数が多い社会なんだと思う。
私が初めて深い友達になった外国人は、日本を旅で訪れていたメキシコ人だった。
彼は路上で自作のアクセサリーを売るアルテサニアで、メキシコ人にしては珍しく世界中を放浪していた。
ヨーロッパのパーティーを巡り、インド、タイ、インドネシアと右回りで世界を周り、日本までやってきた。
MIAの妹の友達から、ちょっとだけアテンドするような感じで紹介され、まずは日本の居酒屋へという事で新世界の串カツ屋に飲みに行った。
不思議そうな顔で串カツを食べ、きちんと割り勘分の自分の勘定を支払い、初めての日本の街(新世界)に目を輝かせていた。
泊まるところも決めていないという事だったので、とりあえず京都の我が家に連れて帰ると、なんと手持ちのお金が 50 ドルだと言ってきた。
不安そうな素振りも見せず、「明日から頑張らないとね!」あっさりしたもんだった。
彼がうちにきたのは8月、夏真っ盛りだったので毎日とても暑い日が続いていた。
翌日は、久しぶりにクーラーがガンガンに効いてインターネットもサクサクの我が家が随分と快適だったようで、一歩も外に出なかった。
「明日からがんばるよー」
と、昨日と全く同じことを言いながら、冷ややっこをつまみに金麦を飲んでいた。
その後もなんだかんだ一週間ぐらいは仕事に出ず、うちらにくっついて遊んでいた。
おしりをたたかれ、ようやく外で仕事を始めだしたが、そこは道売りで世界を回ってきただけあって、最初から結構いい調子でアクセサリーを売っていた。
淡路島までパーティーに出店しに行ったり、船岡温泉に行ったり、近所のイオンに行ったり、友達の展示会に遊びに行ったり。
変なメキシコ人が居候してるってことを面白がって友達がうちに遊びにきたりもした。
結局、1か月近くは居候していたんじゃないだろうか。
うちを出た後には、橋の下で寝たり、人んちのベランダで寝たり、日本をサバイバルをしていたみたい。
京都を離れる前には、律儀にビールを買い込んでうちに遊びに来た。
しっかり稼げたんだなあと驚いたのを覚えている。
ヒッピーのお祭りや、サイケデリックなパーティーにも参加して出店していたみたいで、気が付けば日本中に友達をたくさん作っていた。
観光ビザで滞在できる3か月のうちに東京までたどり着き、そこでもしっかり稼いで一年オープンの往復チケットで成田からメキシコへ帰っていった。
それから一年後、またうちに泊まりに来たので、苦笑しながらも再会を喜んだ。
その後もFacebookでたまーにコンタクトをとったりしながら 2年ぐらい時が流れた。
うちらがメキシコにいくことを考えだして、一度彼にメッセージを送ってみた。
すると、返事は返ってこなかった。
電波を拾えない旅の途中なのか、Facebookを閉じたのか、どっちもあり得るなーと思い、気長に返事を待っていた。
でも、返事はいつまでたっても返ってこなかった。
しばらくして、共通の友達が彼がマレーシアで亡くなったことを教えてくれた。
バックパッカーが泊まるような、よくあるホテルの部屋から落ちてしまったらしい。
ふざけていて落ちたのか、事故だったのか、自ら選んで落ちたのか、原因は分からない。
とってもびっくりしたし、何でそうなったのかを知りたかった。
メキシコに移住して、スペイン語が少しずつ理解できるようになるにつれて、ふとした瞬間に何度も 彼のことを思い出した。
今ならもう少し、込み入ったことも話せるのになと。(以前は英語でコミュニケーションしていた)
ここは彼の生まれて育った国で、一緒に旅ができたらまた違った視点を共有できて面白かっただろうなと思った。
亡くなったことを聞いた時、とても驚いたけれど、不思議と悲しくはなかった。
なぜ?どうして?と疑問は強かったけれど、
彼らしい、いい死に方だなあーとも思った。
メキシコで感じる、死に対する感覚。
日本では、丁重に隠されている死という存在が、ここでは生活の中にあり、その姿がいつも目の端に見えている。
あっという間にやってきて、あっという間に去っていく。
これは、とても興味深いギャップだった。
そんな社会で暮らしていると、自然と認識が少しずつ変わっていく。
はじめは辛くて食べられなかったチリ(唐辛子)が、いつの間にか無くてはならない付け合わせになっていくように、
自分では気が付かないまま、思考は緩やかに変化していく。
死に対する感覚が日本と違う事について夫婦で話をするうちに、
自分たちも必ず迎えるその瞬間を、具体的に想像するようになった。
どんなふうに死を迎えたいのか、どんなふうに迎えたくないのか。
そして、結婚式や旅行やパーティーを計画して実行するように、その瞬間も自分たちの手で決めておきたいと思うようになった。
もちろん、突発的な事故にあうかもしれないし、病気になるかもしれない。
幸せなことに大きなイレギュラーに遭遇することなく寿命近くまで生きれたら、どんな風に終わりを迎えたいのか。
「まだまだ長生きはしたいけど、病気になって、昔なら死んでいるような状態になってまで生きるのは嫌だねえ。」
「そうやなあ。やっぱ、ぽっくり行くのが一番いいんよな。」
「わかるわかる。ぽっくり一緒に死ぬのがいいね。」
「そうやなあ。それやったら、こっちでタイミング決めて、一緒にぽっくりが一番いいねんけどなあ。残された方は悲しいし。」
という結論は割とすぐに出た。
それが何歳のことなのかはまだあやふやだけど、自分たちの意識が残っているうちに、
ふわふわの毛布にくるまれて、お気に入りの日本酒やシャンパンを楽しみ、ボンやりしながら愛する人と一緒に死ぬ。
ついでに景色の綺麗な場所で、最後にあれとあれを食べて…と、妄想は止まらなくなった。
最後まで強欲な感じもするが、こうなってくると最後の晩餐の想像はけっこう楽しい。
「せっかくだから…」
じいさんばあさんになっても、そうやって言い続けているんじゃないかという気がした。
残念ながら、今のところ自分で死を決めることはまだまだハードルが高い。
スイスにはディグニタス(DIGNITAS)という自殺幇助を行っている団体があるし、ベルギーやオランダ、アメリカの一部の州では安楽死は認められている。
だが、自裁死はまだどこの国でも認められていない。
しかし、今から40年先の未来には、その選択肢も世に出ていればいいのになあと思う。
そんな話をたまにしながら過ごしていたら、母親がメキシコに私たちを訪ねて遊びに来てくれた時に、 お土産として本を何冊か持ってきてくれた。
その中でも特に面白かったのが、鳥取県でホスピス(終末期ケア)を開かれているお医者さん、徳永進さんと詩人の谷川俊太郎さんの往復書簡をまとめたもの。
詩と死をむすぶもの 詩人と医師の往復書簡 徳永進 と谷川俊太郎
どの話もじわじわくるのですが、秀逸だったエピソードが一つ。
なぜか、死んでしまった後にまぶたが閉じなくなってしまった患者さんがいたそうなのですが、いくら閉じようとしてもなぜかまぶたが閉じない。
それなら最後に生まれ故郷を見せてあげようと、目が開いたままの状態の患者さんを助手席に乗せて、彼の故郷まで看護婦さんとお父さんとドライブに行く…というくだりが本当に面白かった。
日本人っていろんな意味で狂ってる人が多いと思うのだけど、彼女のようなズレ方はとても愛しいと感じる。
協調性が重んじられ、ルールから逸脱したことをすることが難しい社会の中で、個人のフィーリングでそういうこと(亡くなった人を連れてドライブ)をやっちゃう人のことはとても好きになってしまう。
それは一般的な社会の空気や、法律から逸脱しても、自分の信念で行動しているから。
ルールは破るがマナーは守ると誰かが言っていたけれど、それでいいと思う。
読んでいると笑いながら泣いてしまう。
胸の奥から不思議な感情が沸いてくる。
一つ一つの言葉が深く沁みる。
ホスピスの人たちは、死をハレ(非日常)ではなくケ(日常)として接する。
だから、日常をとても大切にしているように感じる。
最後の眠りに向けて、どう寄り添うのか、それぞれの瞬間の判断が素敵だなあと感じる。
徳永先生とホスピスで働く人たちの死との向き合い方は、メキシコ人のそれとはまったく違う。
全く違うけど、メキシコ人にとっても死はケ(日常)なんだろう。
だから、きっとその存在を近くに感じたんだと思う。
そんな風に死ぬ事についてふわふわ考えていると、
前よりもメキシコと日本のことが好きになった。
そして、自分たちの人生も、前より愛おしくなった。
どんな形になるにせよ、最後の眠りも愛せるようになれれば、それはそれはいい事だなと思う。